少し詳しいProfile

氏名: 三好雅也 MIYOSHI Masaya
生年月: 1979年6月
性別:
居住地: 福井県
出身地: 大阪府
専門: 火山岩岩石学,地球化学,地学教育
現在の所属: 福井大学教育地域科学部地学教室
経歴:

大阪府立鳳高等学校(1995-1998)
高校時代は水泳部に所属していました.あまり大きな大会に出場することはできませんでしたが,良い仲間に恵まれ部活はかなり充実していました.


駿台予備校大阪南校(1998-1999)
高校時代,部活に明け暮れていたため勉強がおろそかになっていた僕は,しっかり勉強し直すために予備校へ.一年間浪人しました.ここでも良い仲間や先生方に恵まれました.


秋田大学工学資源学部地球資源学科(1999-2002)
以前から漠然と「環境問題」というものに興味を持っていた僕は,秋田大学工学資源学部(旧鉱山学部)に入学しました.最初は気候や文化の違いなどに戸惑いました.特に,入居したアパートの大家さんのネイティブ秋田弁には大きな衝撃を受けました(本当にわからなかった).念願の一人暮らしでしたが,寂しさや不安もありました.そんな時,僕と同じ県外出身者の仲間達の存在は大きかったです.彼らと励ましあうことができたおかげで,北国での一人暮らしはとても充実しました.
初めての雪国生活ということで,冬は雪にかなり悩まされました.水道管凍結防止のための水抜き,凍結した道路での車の運転,雪かきなど,雪国に暮らす人々の苦労を実感しました.実際に住んでみないとこういう経験はできないので,秋田での生活は自分にとってかなり良い経験になったと思います.
秋田大学時代の思い出の中で忘れられないのが,3年生時の『進級論文』です.自分一人で野外地質調査を行い,地質図,柱状図などを作成し,論文を書き,結果を口頭発表する,ということを初めて経験しました.発表会は何やら恐ろしい雰囲気だったので,粗相の無いように必死で頑張りました.貴重な21〜22歳の一年間を費やしたハードな作業でしたが,多くのことを学べたと思います.

↑進級論文発表の様子(当時は金髪だった).右写真手前の人物は進級論文指導教官の白石建雄先生.黒板に貼ってあるのは,作成した地質図,断面図,柱状図など.(※筒井智樹先生撮影)

熊本大学理学部地球科学科(秋田大学特別聴講生)(2002-2003)
3年生も終わりに近づき,そろそろ卒論研究をする研究室を選択しなければならなくなった2月中旬のこと.入門しようと決めていた長谷中利昭先生から突然,『来年度から熊本行くことになってん.だから秋田で指導は出来へんわ』と言われてしまいました.『そんなん急に言われても』と思いましたが,いろいろ考えた結果,特別聴講生として熊本について行って卒論の指導をしていただくことに決めました.特別聴講生とは,例えば僕の場合,所属する秋田大学に学費を納めつつ,熊本大学で講義を受講することができ,さらに単位を取得できるという素敵な身分です.多くの先生方のご助力のおかげで,秋田大学の金属鉱床学研究室に籍を置かせてもらい,無事に熊本大学の長谷中利昭先生のもとで卒業研究をさせていただくことができました.この時から,僕の阿蘇火山の研究がスタートしました.
第二の故郷,秋田を離れ熊本に移り住んだわけですが,最初はあまりの気候の違いに戸惑いました.熊本はとにかく蒸し暑く,春と秋が異常に短い!というのが印象でした(長く住んだので慣れましたが).引越し前は,熊本大学の4年生と仲良くなれるか少し不安でしたが,彼らは暖かく迎えてくれました.そのおかげで熊本での生活もとても充実したものになりました.

熊本大学大学院自然科学研究科博士前期課程(2003-2005)
2003年3月に秋田大学に無事卒論を提出し,卒業した後,熊本大学大学院に入学しました.晴れて長谷中研究室所属になったわけです.
2003年5月に初めて地球惑星科学連合大会で発表しました.最初は会場(幕張メッセ)の大きさと人の多さに圧倒されました.かなりびびっていたと思います.さらに2003年12月には初めてAmerican Geophysical Union(AGU)で発表しました.ポスター希望で学会発表のエントリーをしたはずなのに,なんと口頭発表に回されてしまいました.それまで英語で発表なんてしたこと無かったのに,初の国際学会参加でいきなり口頭発表・・・当時修士1年生の僕にとっては考えられませんでした.ポスター発表に変更してもらうよう問い合わせてみましたが,『学生に口頭発表のチャンスを与えたい.それに直前だから変更は無理だ』と,あえなく却下されました.そのありがたい(?)配慮を受け入れ,観念して口頭発表の準備をしましたが,当時パワーポイントなんて使ったことが無かった僕は,OHPを使って発表することになりました.『なんとかなるやろう!』と思って挑んだのですが・・・・・学会当日は極度に緊張し,英会話に慣れていなかったので当然発表はたどたどしい英語だし,ネイティブ英語の質問はほとんど聞き取れないし,それはもう散々な発表になってしまいました(汗)という訳で,初・国際学会発表ではかなり悔しい(そして恥ずかしい)思いをしました.本当に,苦い思い出です.
しかしその後,悔しさをバネに(?)腐らず国内外の学会でコツコツと研究発表したおかげで,いろんな大学,研究機関の人達と知り合うことができました.また,そういう努力が報われたのかどうか分かりませんが,修了式では,学内賞の研究業績最優秀賞をいただきました.

熊本大学大学院自然科学研究科博士後期課程(2005-2008)
修士2年生の夏に熊本大学の博士後期課程に進むことを決めました.一時,他大学の大学院に行こうかとも考えましたが,当時おもしろくなってきていた九州の火山の研究を続けたいという気持ちが強かったのだと思います.博士後期過程に進むことについては結構悩みました.学位取得できるかどうか,取得後どうするか,など色々と悩みました.そんな時指導教官の長谷中先生からいただいたアドバイスは,『投稿論文書き続けられるんやったら,進学してもええんちゃうか』というものでした.たしかに,あれこれ悩む前に行動してみようと思い,論文を書いて投稿してみました.査読結果は『大幅修正の必要あり』でしたが,査読者の方々がデータの価値を認めてくれたおかげでリジェクトは免れました.この時初めて自分の研究結果が他人に認められた気がして嬉しかったというのを覚えています.その最初の投稿論文が受理に至るまで(1年以上かかりました)の過程で,論理の組み立てなど様々なことを教わったと思います(と同時に編集委員,査読者の方々のお手をかなり煩わせたことと思います).そんなかんじで,いろいろ悩みましたが結局進学を決めました.
毎年,博士後期課程まで進む熊大生は稀なので,少なくとも3年間孤独な戦いになると覚悟していましたが,僕の代では僕を含めて3人も進学者が居たのでかなり心強かったです.熊本大学では学位取得のために少なくとも2本の査読付き論文が必要なので,3人ともなんとか3年間で学位取得できるように必死で投稿論文を書きました.『1人だけ取り残されるなんて絶対イヤだ』という思いが僕達3人にはありました.その切磋琢磨が実を結び(?)めでたく3人揃って3年間で学位を取得することができました.

・・・・・しかし喜びも束の間,僕達の本当の戦いは学位取得後だったのです.


取得学位:博士(理学)

熊本大学では長谷中利昭教授の研究室に所属していました.
熊本大学大学院自然科学研究科 産学官連携研究員(2008-2009)
無事に博士の学位を取得し,あと残る問題は「就職」でした.僕以外の同期二人は学位取得時にはすでに翌年度からのポスドクが決定していましたが,僕は2月になってもまだ行き先が決まらずにおりました.なんとかなるさと楽観的に考えようと努めましたが,やっぱり1人だけ決まっていないというのは本当に不安で,辛いものでした...いろんな公募に応募しては不採用通知をもらい,そんな日々の繰り返しでした.
転機が訪れたのは,忘れもしない2008年2月11日.NUMO(原子力発電環境整備機構)の方たちの九州火山巡検に参加した時でした.指導教官の長谷中先生がよくNUMOの会議に出席しておられて,その巡検にも参加予定だったので,僕にも声をかけてくださりました.いざ参加してみると,NUMOの人達だけでなく世界中から有名な先生方が来ておられて,それはそれは驚きました.しかし九州は僕の研究地域なので,ひるまずにその先生方と議論しました.当時まだゲラの状態だった論文を手渡し,ここぞとばかりに必死にアピールしました.その甲斐あってその先生達と仲良くなることができ,その先生達がNUMOの方たちに僕を一年間ポスドクとして雇うことを提案してくださりました(本当にかなり強くプッシュしていただきました).そのような経緯で,いろんな人々の応援のおかげで一年間ポスドクをさせていただけることになりました.応援してくださった先生方,NUMOの方々には本当に感謝しております.
形式的には,長谷中先生への委託研究という形で,僕は間接的にポスドクのお給料をいただけることになりました.熊本大学自然科学研究科始まって以来,委託研究費でポスドクを雇うなんてことはほとんど前例が無かったらしいので,いろいろお世話になった事務の方々には大変感謝しています.また,委託研究費を全て僕の給料に回してくださった長谷中先生にも本当に感謝しています.

ポスドクの業務は,「確率論的噴火予測」のための基礎データコンパイルでした.火山岩の給源火道位置,噴火年代値などをコンパイルするのが主な作業でした.英国のスティーブ・スパークス教授や米国のチャック・コナー教授たちとの共同研究だったので,米国(南フロリダ大学)に二ヶ月間,英国(ブリストル大学)に約10日間滞在することができました.プチ留学気分が味わえて,かなり良い経験になりました.
以上のとおり,多くの人々に支えられてなんとか一年間熊本大学で産学官連携研究員として研究できました.この時の御恩は忘れられません.


京都大学大学院理学研究科附属地球熱学研究施設 研究機関研究員(2009-2011)
2009年春,なんとか京都大学地球熱学研究施設で次のポスドクのポジションを得ることができました.実は一度,申請者中2位だったため落選して不採用通知を受けたのですが,1位の方が辞退されたので繰り上がりで採用していただけたのでした.そういった経緯で,湯の町別府に引っ越しました.6年間住んだ熊本を離れたので,普段の生活,研究環境ともに新鮮でした.あちらこちらで湯気が立ち上り,一歩外に出ると温泉の香りが..夕方になると洗面器をもった年配の方々が半裸でうろうろしている,そんな素敵な町の雰囲気でした.
↑(左)京都大学地球熱学研究施設. (中)別府名物地獄めぐりのひとつ『海地獄』. (右)同じく地獄めぐりのひとつ『鬼山地獄(別名ワニ地獄)』.餌やりタイムが大迫力です.

京都大学地球熱学研究施設所属時に得た印象深い経験は,IODP 324航海(Exp. 324 Shatsky Riseへの参加でした.
2009年9月5日〜11月5日の2か月間,米国の掘削船JOIDES Resolution号に乗って船上研究をしました.ターゲットは北西太平洋の超巨大海底火山,シャツキー海台です.乗船研究者は複数の国から集まっていて,日本からは8名の研究者が参加しました.乗船研究者は掘削されたコアを様々な手法で調べ,記載します.僕は火成岩岩石学者として乗船したので,コアの肉眼観察による記載,偏光顕微鏡観察による記載が主な仕事内容でした.僕はこれまで陸上の火山噴出物しか記載したことがなかったので,水中で噴出し,しかも変質している玄武岩の記載には結構苦労しました.しかし他の火成岩岩石学者に相談したり,変質岩のスペシャリストに教えてもらったりしたので,なんとかなりました.
乗船研究者は昼シフト(正午〜深夜0時),夜シフト(深夜0時〜正午)のふたつに分けられます.12時間交代で船上研究を行うわけです.船上研究以外の12時間は,何しても自由です.皆,船内のトレーニングジムに行ったり,睡眠したりします.論文を執筆している人も居ました.ちなみに僕は夜シフトでした.僕の自由時間のお楽しみは,映画鑑賞でした.船内には,かなりの数の映画があります.トレーニングジムのすぐ近くにレクリエーションルームみたいな部屋があり,そこでは大スクリーンで映画が楽しめます.
船上では様々な催しが企画されました.誕生日会やハロウィーンパーティ,ダンスパーティ...中でも忘れられないのが「赤道祭」です.我々はシャツキー海台掘削を終え,オーストラリアのタウンズビルに向かう際に赤道を通過しました.赤道祭とは,その名のとおり船舶が赤道を通過する際に船上で行われるお祭りです.初めて赤道を船で通過する者は,海神ポセイドンの試練を受けなければならず・・・という内容です.僕は初めての赤道超えだったので,もちろん赤道祭に参加しました.敢えてここで多くは語りませんが,いろいろあって結果的にはめでたく赤道祭で海神ポセイドンに認められ,無事に赤道を通過することができたのでした.
IODP 324航海 船上レポートへ --> LINK
↑(左)港に停泊中のJOIDES Resolution号.(中)夜シフトのお楽しみ”日の出”.(右)乗船中の食事.毎日おいしくいただいた結果,2か月間で体重が約8kg増えました.食べ過ぎ注意です.
東京大学地震研究所 学振特別研究員PD(2011-2011)
2011年春,学振PDに採用されました.内定が出たのは12月28日(例年より遅かったので心配しました).DC1,DC2やら海外学振やらを含めると8回目の応募で,ようやく採用されました.不採用A判定が続いたものの,いったい自分の申請書の何が悪いのかわからず随分苦しみました.しかし別府で山本順司さん(当時京大助教)に不採用書類を添削していただいたことが転機になりました.山本さんからいただいたコメントの中で一番印象に残っているのは,「この研究の結果が出たら,他分野の人にとってどんな嬉しいことがあるの?」というものでした.「?えっ??えーーーっと,それは...その...」正直そんなことそれまであまり考えたことなかった僕は,明確に答えることができませんでした(汗)しかし同時に自分の視野がものすごく狭くなってることに気付かされたのでした.それから,これまでとは少し違った視点から申請書を作成することを心がけました.書いては添削していただいて修正,というのを提出期限ギリギリまで何度も繰り返し,ようやく山本さんが「いいんじゃない」と言ってくれるような申請書が完成しました.これまでの申請書とは全く違ってみえるくらい素敵な(自分で言うのもなんですが)モノができあがりました.学振の申請書は論文数が最重要!というお話をよく耳にしますが,それだけではなく,内容もかなり重要,ということを学びました.山本さんにお会いできたことは,僕にとって別府で得た最大の収穫といっても過言ではありません.

そんなわけで9年間過ごした九州を離れて東京に引っ越したのでした.大震災のちょうど二週間後の3/25に東京入りしました.不動産やさんに「こんな時に入居なんて珍しいですね」と言われるし,家の壁には複数の新しいクラックがあるし,一抹の不安はありましたが,予定通り入居できました(よかったよかった).

↑(左)東京大学安田講堂. (中)自宅近所の谷中銀座. (右)隅田川からみた建設中の東京スカイツリー(2011年4月10日).
福井大学教育地域科学部 地学教室 講師(2012-2015)
2012年元日,福井大学教育地域科学部学校教育課程理数教育講座の講師に採用されました.ついに常勤のポストに就くことができました.2008年3月に博士の学位を取得後,少しでも自分の専門分野に近いポストの公募が出たら応募するという日々を繰り返し(JREC-INを見なかった日はありません),ようやくいただいたポジションです.
僕が着任した教育地域科学部は教員養成系学部なので,小・中学校などの現場で活躍できる教員を育て送り出すことが主要なお仕事となりました.自分がこれまでに所属した学部・研究機関とは雰囲気がかなり異なるので,とても新鮮でした.ポスドクの頃と大きく変わった点は,研究に加え,教育・社会貢献が求められるということです.学内外の色々な委員を任されるというのもポスドクの頃にはなかったことです.正直戸惑うことも多かったですが,地学教室の皆さんに支えられ,どうにかやってこれたというところです.

↑(左)奥にそびえ立つビルは地学教室がある福井大学総合研究棟I. (中)福井城石垣の上に建つ福井県庁. (右)東尋坊.
福井大学教育地域科学部 地学教室 准教授(2015-現在)
2015年4月1日,福井大学教育地域科学部学校教育課程理数教育講座の准教授になりました.
今後も研究・教育を通じて”おもろい”理科の教員を育成・輩出してゆきたいと思っています.